わたしと眼鏡のこと

眼鏡をかけるようになったのは、小学校六年生のころだった。

視力検査で2.0だか何だかと言われ、遠視を指摘されたからだったように思う。もはや遠い記憶過ぎてあやふやな部分ではあるのだが、ともかくもそれから眼鏡は私にとってなくてはならない存在となっていった。

遠視用の眼鏡をかけてからほんの一年未満で私は今度は近視用の眼鏡をかけることとなった。この辺りの原因はさっぱりとわからないのだが、とんとん拍子に落ちてく視力に驚いた覚えがある。一年も経たずに使われない運命を背負ってしまった眼鏡には、今考えると大層ひどい事をしたなと思う。だが当時はレンズの入れ替えができるかもなんていう知識はなかったし、今では古いフレームも保管してあるがこの頃のものはさすがにとっておいたりはしていなかった。どんな眼鏡だったかも正直に申し上げるが忘れてしまっている。とてもとても申し訳ない気持ちでいっぱいだ。

ともかく、そんな最も身近な医療器具である眼鏡に対して殊更強い愛着を持ち始めたのはおそらく五年程前の事だったように思う。眼鏡自体がいったい何時から好きだったかなんて明確な時期を覚えているわけではない。気づいたら眼鏡が好きで、ネットで素敵な眼鏡を見かければどんなに仕事が忙しくてもテンションがぐんと上がって、おかげでネット広告がすっかり眼鏡に占領されているなんていう状態になっていたのである。ただ、明確に覚えているのは入り口となってくれた店のことだ。

秋葉原駅からぶらぶらと散歩しているときに見つけた眼鏡屋さんである。

その日、珍しく平日が休みだった私は本当に何の理由もなくふらっと散歩をしていた。あえて理由をつけるとしたら、その眼鏡屋さんがある、高架下にセレクトショップが立ち並ぶ施設の一番奥にあるステンレスアクセサリーの店に遊びに行きたかったからだったように記憶している。まぁそんな具合に目的も曖昧に散歩をしていた私は小さな眼鏡屋さんの前でふっと足を止めた。

眼鏡かぁ……ネットでたくさん眼鏡を見てはいるけれど、随分作り直してないなぁなんて考えながら店頭に飾られている眼鏡をぼんやり眺めた。どれも美しくて、私が普段使用している眼鏡とは明らかにクオリティが違うとわかっていたし、きっとお値段も私が普段使うにはもったいないほどのお値段がついているであろうこともわかっていた。それでもその中の一本、鮮やかな青のフレームに私はすっかりと心奪われ、店内に足を踏み入れてしまったのである。

お店はどこもかしこも真っ白で、一歩入った瞬間から入ったことを後悔していた。敷居の高い店に入ってしまった!というような後悔がぐわっとやってきて、店員さんに見つかる前に帰ろうと思ったのだが、何せこじんまりとした店である。さらには平日。店内に私以外の人影はない。カウンターの奥にいる店員さんはしっかりともうこちらを見ていたし、にっこりと笑っていらっしゃいませ、と声をかけてくださっていた。

私はお洋服やアクセサリーなどの買い物が苦手である。お店にもよるのだが店員さんが一生懸命接客してくださるのはとてもとてもありがたいのだが、ぼけぼけと眺めるのが好きなものでどうしても店員さんのおすすめ下さるテンポが合わず、早々に撤収することも少なくない。眼鏡屋さんも同様だ。店員さんがすっと寄ってきて「今日は何をお探しですか?」なんて言われて、試着したら最後購入しないとめちゃくちゃ悪いなって気分になってしまうに違いないとビビりまくっていたのだが、店員さんはちっともカウンターの奥から出てこなかった。

いらっしゃいませの一言からは一切こっちに声をかけてくることがなく、時折こっちを見るだけで後は何やら作業をしていらっしゃる。適度に放っておかれる安心感にやっと店内を見る余裕ができた私は、そこで再び固まった。ディスプレイにとっても奇麗に飾ってある眼鏡は試着なぞできやしないし、手に取ってみるのもよろしくないだろうと思ったのである。似た眼鏡を探すといっても店内の眼鏡は緊張のあまり全部同じ様な形に見えたし、やっぱり一番キラキラしているあの青い眼鏡が見てみたかった。

おろおろまごまご、店員さんに聞いてみればいいのだろうが、声をかけるのはなかなかにハードルが高い。何せ買うと決めているわけではないのだ。高そうな眼鏡に触れるのもはばかられる。店員さんからしたら私は明らかに不審な客だっただろう。しかしそんな不審で面倒くさそうな客に、カウンターの中にいたはずの店員さんは実に柔らかに声を掛けてきてくれたのである。

詳細はもはや曖昧ではあるが、会話中も大層不審人物であっただろう私に対し、店員さんは終始親切だった。買うつもりがなくて申し訳ないのでと訳の分からんことを口走りながら、きらきらかがやく舞台のようなディスプレイから取り出していただいた眼鏡を手に固まる私に、「購入しなくていいんですよ、ぜひかけてみてください」とおっしゃって下さった。恐る恐るかけた眼鏡は今までかけてきた眼鏡どの眼鏡よりも快適で、何より舞台を降りてなおキラキラ輝いて見えた。

他にもたくさんの眼鏡を見せていただいたけれど、結局私は青く美しい眼鏡を手放せなくて、どうしても諦めがつかなくて、店員さんに「お金を下ろしてくるので、十分だけでいいので、これをとっておいてくれませんか」と懇願した。店員さんはとっても嬉しそうな顔で「お待ちしてます」と答えてくださった。

いつもは手数料を気にして利用しないコンビニのキャッシュディスペンサーでお金を下ろして、当社比ながら全力で走ってお店に戻った。店員さんは「そんなに焦らなくても大丈夫ですよ」と仰って下さったけれど、取り置きなんてことはおそらく基本的にしてはいただけないことだろうし、申し訳なさがすさまじかった。それに加えて苦手な駆け足を頑張ったのはシンプルに「あの青い眼鏡が買えるのがうれしい」という気持ちが過分に含まれていたように思う。

小さなお店の奥に通され、見慣れた検眼のための機械と相対する。そこまではいつも通りだったのだが、その後私は大層驚いた。普段作っている眼鏡は基本的にランドルト環のあっちこっちそっちをやって度数を決めたら黒い検査用の眼鏡にレンズを何枚か入れ、緑と赤のどっちが濃い?っていうどっちも濃いような薄いような……っていう不思議な検査をしてほとんどが終わったようなものである。けれどそのあと、その店員さんは、購入する眼鏡を私にかけさせ、レンズに赤い点をつけたのだ。私にとって眼鏡というものがとても大切になった瞬間が、この赤い点なのである。

何をしているのか本当にわからず、「何のために点をつけたんですか?」と問えば店員さんは「目の真ん中とレンズの中心を合わせるんですよ」と教えてくださった。

レンズの中心と目の真ん中。そんなものを意識したことは一度としてなく、また普段眼鏡を作る時もそんなことを気にされたことはなかったように思う。もしかしたら私が気付かないところでそろえられていたのかな?と思ったが、店員さんは「今までかけてらっしゃった眼鏡はちょっと目の真ん中とレンズの中心がずれていた」と仰っていたのをよく覚えている。

となると、気になるのはそれがずれていると何が起きるかということなのだが、疲れ目や視力矯正が正しく作用しなくなってしまう可能性があるというようなことを説明していただいた。

目からうろこというか、そんなこともあるのかというか。本当に新鮮な驚きをもって私はその話を聞いた。同時に今まで自分の目は随分と大変な思いをしていたのではないかと思ったりもした。

眼鏡を選ぶより時間をかけて、私は自分の目と向き合った。眼鏡屋さんは終始丁寧で、乱視があること、今までのレンズには乱視がなかったのでちょっと慣れるのに時間がかかるかもしれないというようなことを説明してくださった。

じっくりと向かい合うその時間は私にとって新たな驚きの連続であった。ひとつひとつ知れることが嬉しくて、楽しかった。この時すっかりと眼鏡沼にはまり込んだのだと思う。

この時の眼鏡は今でも大切にとってある。この眼鏡屋さんにはこの後も何度もお世話になり、新しいフレームも何本か購入させていただいた。どれも素晴らしい眼鏡である。

この後、私はもう一つの転機ともいえる眼鏡ブランドに出会うことになるのだが、それはまた後日にでも記せたらいいなと思う。